お子さんといっしょに暮らすママ

 私は、2年の別居後調停で離婚が成立しました。離婚の理由は、性格の不一致。
 一緒に暮らしているときは、ほとんど無視をされている状態でしたので、妊娠中の体調不良時からひとりで子育てをしている状況でした。
 私は、ストレスで体調が悪くなり、病院に行く中で「このままではいけない」と別居の話し合いをしました。
 そのときに「別居しても子どもに会いたい」と話が出ました。
 子どもは、1歳。パパは小さな子どもの面倒を見ることができるような器用なタイプではなかったのですが、パパのご両親が子どもをかわいがってくれると思い、月に1回子どもはパパの実家に行くことになりました。片道2時間弱の距離です。
 私は、別居することで体調もよくなり、病院も通わなくてよくなりました。その後、調停で離婚が成立しました。
 養育費については、「子どものことを考えてくれていない」と落胆しました。色々思うところはありましたが、離婚後も面会交流は今まで通り続けることになりました。
 面会交流時は、パパの実家にお泊りをしていたので、9歳くらいまでは夜「寝れない」と子どもから電話がよくあって
 「パパどうしているの?」と聞くと、「寝ている」と子どもの返事
 子どもに負担かけてないか不安にもなりました。
 でも、パパのことが好きな気持ちも知っていましたので、面会交流は続けました。
 今は、子どもも忙しくなり 2・3か月に1回程度ですが、GWや夏休み・冬休みに3日ほどお泊りしています。
 会えない時は、子どもとパパが直接メールで会話をしています。
 子どもの学費がかかる時期にもなり、ゲームの会話をしているパパについ「いいとこ取り」と思ってしまうのですが、それでもパパと子どもの関係はずっといいようになってほしいと思っていますし、離婚して本当によかったと思えるほど今は落ち着いた生活ができています。
 思春期になり、子どもも色々な感情を処理できない時もあるかもしれません。
 でも、子どもは親をよく見ています。なのでただ、今私ができることを精一杯すること。
 ただ、それだけを考えて今子どもと暮らしています。


お子さんといっしょに暮らすママ

 私は、6歳の娘と共に大阪で暮らしており、娘の父親は東京で暮らしています。離婚後3年間は、私も東京で暮らしていましたが、仕事の都合で実家のある大阪へ引っ越すことになりました。
 離婚調停中から面会交流を実施しており、当初の私は、面会交流にはとても否定的で、面会交流日が近づくたびに体調が悪くなり、当日は吐き気、過呼吸に襲われることもありました。
 調停が、長引けば長引くほど父親への嫌悪感、憎悪は増すばかりです。
 調停が、成立したからと言って父親との縁が切れるわけはなく、面会交流を実施していました。
 その当時の面会交流は、付き添い型で私も同席して監視していました。周りから見ると異様な光景だったと思います。面会交流をどうしたら止めさせられるのかそのことばかり考える日々でした。
 しかし、あることを機に面会交流や父親への嫌悪感が、さっと消えていったのです。
 それは、自分の夢が見つかったことです。
 夢へ向かって準備を始め、大阪へ戻っていざ事業を開始すると、事業を軌道に乗せることが最優先。なぜか面会交流に対する否定感がなくなり、むしろ、面会交流の時間に仕事ができることがありがたいと思えるようになったのです。
 父親は、月に1回大阪に来ることになり、面会交流は受け渡し型へステップアップしました。そして、今では時間も9時間に延長し、連絡調整型のみご支援いただいています。
 受け渡し時には、父親に「おはようございます。よろしくお願いします」と挨拶ができるようにもなりました。
 4年の歳月を経てここまで自分の気持ちが変化するとは、当初想像もしていませんでした。
 この変化は、私だけではなく子どもにも表れました。
 当初面会交流を実施していた3年間は、子どもは私に「パパと会いたくない。楽しくなかった」としきりに言っていました。面会交流の日には、行きたくないと泣いてさえいました。
 しかし、面会交流の最中は、とても楽しんでいるようでした。
 私の気持ちが変わってからは、「今度いつパパと遊べるの?」「パパと遊んで楽しかった」と言うようになりました。これが、本心なのだと初めて気づきました。
 私は、ハッとしました。なぜなら、こんな小さい子ども(当初2〜3歳)に、私を傷つけまいと気を遣って嘘をつかせてしまっていたのですから。なんてひどい母親なんだろうとひどく自分を責めました。
 そして、子どもにとって唯一のパパであること、その子どもにとって唯一のルーツを絶つことは、自分勝手なエゴであると気づいたのです。
 子どもは、親の所有物ではなく、1人の人間であること。
 子どもには、選択する権利があるということ。
 「子どもに会わせる」のではなく「子どもが会いたいか」なのです。
 面会交流を継続することで、養育費も継続される可能性が高いです。
 その養育費は、将来子どもの教育費になります。
 子どもが、パパが貯めてくれていたお金で大学に行けたと知った時、両親から愛されて生まれてきたことを改めて実感することでしょう。
 そのことを多くのママたちに知ってもらいたくて、さまざまな機会でお話しさせていただいています。
 離婚が、間違った選択だとは思いませんが、離婚するなら調停あるいは公正証書にきちんと残して、子どもと親の縁を切ってしまわないようにしてほしいです。
 面会交流は、辛いかもしれません。
 でも、いつか変わります。変われます。
 そして、その辛さからいつか解放されます。
 その辛さから解放されたとき、自分を褒めてあげてください。
 そして、笑ってください。
 その時、お子さんは今まで見たことのない笑顔を見せてくれるはずです。
 「産まれてきてよかった。」そう思いながら。


お子さんといっしょに暮らすママ

 私、〇ーちゃんのパパとは別々の道を歩んでいます。(結婚生活に終止符をうちました)
 現在では、車で15分くらいの場所に住み、〇ーちゃんを共同養育しています。パパとは、〇ーちゃんの親として、共同養育のパートナーとしてのつきあい、支えあいを続けています。
 もう少し具体的に言うと、〇ーちゃんには2つの家があるという形になっています。
 娘を、父親と母親が、それぞれの家で、半々ずつ、みています。
 7歳の〇ーちゃんとは、普通に会話ができます。
 やさしい表現で離婚の理由などを話していて、〇ーちゃんなりに理解しています。
 今のところ、三方良しの形だと感じており、3人とも元気に暮らしています。

〜こんな風にしました〜
◎ 裁判をしないで、話し合い→書面で同意書を残しました。
◎ もともと共同でしていた仕事を個人事業主に変更し、わけられる財産は折半。
◎ どちらともが、子どもと会える状況を保つことを最優先した。結果が出ているので深入りせず、お互いの悪口を子どもには言わない。
◎ 存命の親や、共通の友人・知人にも、事前相談はしなかった。(離婚後も、関係性が変わらないように そのため、離婚で
 友人が減った・・ということはないです)

 離婚に関しては、いろんなご意見があると思いますが・・
 人は、成長してどんどん変化する生き物なので、人と人との関係性が変わることは、むしろ自然なことかな?と、私は感じています。
 長く続くこともまた素晴らしいと思うのですが、変化した関係が自分にとって良くないものだったら、柔軟に対応していくこともまた大事なことなのかな?と感じています。
 私は、以前として変わらず、しあわせな新郎新婦やご家族を撮影することは、とても楽しいので仕事にも支障はありません。
 私は、人がしあわせなほうが、とても嬉しいのです。
 実家の家族や、たくさんの友人や仲間に支えられていることもあるかもしれません。
 どうぞ、これからもよろしくお願いします。
 あたたかくお見守りください♪


お子さんと離れて暮らすママ

《その1 面会交流のことについて》
 月1回2時間、決まった場所(あるファミレス)で相手親の監視つきといういわゆる「最小面会」を経て、月2回宿泊も可能の「育児時間」を頂くことができるようになりました。
 ファミレスでの面会交流は、断続的におよそ6年続けてきました。
 そのことについて、幾つか思ったことを。

・何故それができるようになったのか?
 相手親が「離婚して親権をこっちにくれたら、息子ともっと会わせてやってもいい」と言ってくれたことによるものです。
 相手親は、こちらに親権がなくなれば、子どもを連れ去られる事がなくなる、もしくはこちらが息子を連れ去り、身柄を確保する権利がなくなる、という認識をしていたみたいです。

・相手親はどうして上のようなことを思うようになったのか?
 以前からそういう風に考えてはいたらしいです。
 しかし、息子も成長して、ファミレス面会を嫌がるようになってきたこと、息子の成長の過程で、母親の存在が必要らしい、と相手親が気づいたことが大きな理由みたいです。私が聞いた限りですが。
 本当に色んなことがありましたが、いずれにせよ、父親が息子を一生懸命育て、息子と向き合ってくれたから、そういう結論に達したんだろうな、と思うことにしました。

・自分が努力したことは。。。。
 「息子と父親の絆を否定しない」ファミレスでは私を差し置いて、父親と息子が話をしているという場面、かなり多かったです。実は。何のための面会交流だろう、と思ったこともしばしば。何度かハラワタが煮えくりかえるような思いをし、お手洗いに駆け込んだことも一度や二度ではありません。しかし考えを切り替え、「自分は、息子と父親のことをあったかく見守る母ちゃんなのだ。」と思うことにしたら、精神衛生上かなり良くなりました。
 「気持ちだけでも養育費を手渡す」
 わたしは、母親として息子の養育に関わりたい、という意思表示の意味もありました。相手にとっては、これがプレッシャーになった可能性もなくはないかも。。。

・PASはなかったか?
 実は、相手親がこれを大変心配していました。息子が、母親に会いたいと言わなかったこと、母親を拒否する態度も見られたということから、だそうです。
 わたしもそれを想定した上で息子の育児を再開しましたが、今のところ、その様子は微塵も見られません。ファミレスでも楽しそうな笑顔を見せてくれましたから。しかし、私の家への迎えの車内や、家ではその100倍は楽しそうです。それを見てる方は更にその100倍楽しいです。

《その2 引き離しに遭ってからの気持ちの変化》
1)引き離し直後〜1年
・夫婦関係が、破綻していたにもかかわらず、元の生活に戻ろうという一心だった。いつか戻れる、夫はわかってくれるはず、というか、早く機嫌直して家に戻らせて!という気持ちだった。
・自分では「早く立ち直って、また育児をしよう」という気持ちで過ごしていたつもりだが、はたからみると、どうやらそのきな様子ではなかったらしい。
・前向きになりたい気持ちがあったと同時に、なんせ、生きていること自体が辛い。いくら人前では笑顔を作ってみても、不安定さような前向が何かの拍子に簡単に見破られる。それを必死に「そんなことないですよ!」と否定していたような記憶もある。
・家庭を失った悲しみが余りにも大きすぎる時期だった。自分の存在価値がゼロだとも思えて仕方のない時期だった。今思えば、そんな状況下で自殺をしなかった自分がえらい。

2)1年後〜3年後くらい
・まず、息子と一緒に行った場所、見たものを思い出すこと自体が辛い。街中でも涙が出てきて困るレベルだった。
・街中の子どもの姿にも涙。息子と一緒に見ていた教育テレビを見るのもしんどい。
・日曜日の家族連れや、仲睦まじいアベックを見るのが辛い。
・面会交流が不安定な時期でもあり、まだ相手に振り回されている感が大きかった。
・何で自分がこんな目に遭わなければならないのか、そんなに自分が妻、母親として不適格な人間だったのか、と思い知らされる時期だった。
・凄く寂しがりやになっていた。

3)3年後〜6年後
・面会交流で息子とも何度か会って、成長を確認できるようにもなってきたので、息子と離れた辛さは若干減ってきた。街中の子どもの姿に、「ああ、うちの子もあんな頃があったねえ」と和めるようになってきた。
・全く息子と会えない時期もあったけれども、それまでの面会の実績もあったことで不安は若干紛れていた。
・「相手に振り回される感」への対処法が見出せてきた。気持ち的なものだけど。
・自分が進むべき道が見えてきたこともあってか、自立して息子に恥じない生き方をしよう、と思えるようになってきた。
・それと同時に、寂しがりや度が大幅にダウンしたような気がする。
・日曜日の家族連れや、街中のアベックを見ても、不思議なくらい何とも思わなくなった。

4)7年近く経って、離婚してから
・息子が、3歳から9歳まで、母親として密接に育児に関わることができなかったことは残念だし、それが許されてきた現実に対する怒りがないことはない。
・でも、大切なのは、これから息子に何を伝えていけるか、これからどうやって信頼関係を築いて行くかだと思う。
・息子と今まで向き合って、一生懸命子育てしてくれた相手親に対しては、(これまでは筆舌に尽くし難い程様々な経緯が、あったものの)今では感謝している。

《その3 久々の育児時間》
 息子との会話から感じたこと初めて息子が私の家に来ることになった時のことです。
 「母ちゃんは、一人っ子なの?」
 私の家に向かう車内で、息子が私に尋ねました。
 それを聞いて、そうか、息子は私のことを余り知らないんだなと思いました。
 そこで、私自身の兄弟のこと、そして祖父母のことを話すことになりました。
 そして、私が今している仕事、今学んでいることについて色々と知りたがりました。
 他にも、今住んでいる家のこと、私の友達のこと、子供時代のこと…。
 それを聞くと、彼は何かを納得したような、半分しかなかった世界のもう半分を見つけたかのような、何とも表現し難い表情
 を浮かべました。考えてみれば、これまでの面会交流では、私自身のことを話す機会がありませんでした。
 月1回2時間という限られた時間の中では、お互いの近況報告や目の前で起こっていることを話すのがやっとでした。
 私も同じように、息子に学校のこと、勉強のこと、夢中になっていることなどを尋ねました。
 面会交流だけでは見えなかった息子の普段の生活のことを、生き生きとした様子で話してくれました。
 私も息子のことをほとんど知らなかったことに気づかされるのでした。
 息子は今まで、父親とはよく話をしていたのでしょう。
 父親のことは、だいたいどんな人物か、どんなことを考えているかは知っていることでしょう。
 しかし、今まで私とは時々顔を合わせるだけでした。
 時々会うだけでは「何だかよくわからないけど、僕にやたらと会いたがっていて、たまに何かくれる気のいいおばさん」とい
 う認識を持ってしまったとしても、無理はないことでしょう。
 しかし、短時間でも生活の一部を共にする機会を得たことで、母親という人物を理解するきっかけになったことは間違いあり
 ません。夫婦が、協力して和やかな家庭を営み、そこで育児をするということが叶わず、息子には相当の苦労や心配をかけ、
 本当に悲しい思いもさせてしまいました。
 それは、夫婦破綻の原因がどうであるかとは全く別の問題で、父母の責任です。
 
 父親と母親。
 残念ながら別れてしまった二人ですから、お互いに相容れない世界観を持っていたであろうことは否めません。
 しかし、息子にはその異なる世界を、父母という眼鏡を通して見ていくことができるのかもしれません。悲しみをいつか豊かな経験として、息子自身の人生の糧としていくことができるよう、親として精一杯息子と向き合って生きたいです。


お子さんと離れて暮らすママであり いっしょに暮らすママ

 私は、2度の離婚をしました。最初の離婚の後、2人の子供を国外に連れ去られた別居親でもあり、2度目の離婚では1人の娘の同居親でもあります。国外に連れ去られた子供たちとは、7年半以上会えていません。
 私は、子供に会えないつらさがよくわかっている別居親の立場で2度目の離婚を決意した時に、娘と父親を会わせないということはできませんし、するつもりもありませんでした。
 離婚した時は、まだ2歳でおむつも外れていなかったので毎週日曜日の朝から夕方まで父親と過ごしていました。
 3歳になって、だいぶ手がかからなくなってからは、毎週末お泊り交流をしています。その他も、都合によっては保育園のお迎えを頼むときもあります。
 娘は、笑顔で「行ってきます」と言って出て行き笑顔で「ただいま」と言って帰ってきます。本来こうであるべきだよなぁと毎回思います。娘の行動からみても、私のことも父親のことも大好きなのです。
 もちろん、ここまで来るのにはいろんなことがありましたし、今でも色んなことがあります。その度に悩みますが、私が自分なりに学んだことは「相手に望み過ぎない」ことです。
 私自身も完璧に母親として頑張ってるわけではないですし、男親には小さいことでも教えて行かなければいけない(わからない)ことがたくさんあるからです。
 そうして、自分自身も母親として学んでいかなければいけないと思いますし、相手にも父親として学んでもらわなければ子供は安心して成長できないと思います。今、こうしてる間も子供は成長しています。親同士が争ってる場合ではないと思ってなりません。
 私は、自分で決めて離婚にしても面会交流にしても、法で争っていません。私自身、両親の離婚の時も法で争っていませんでした。色んな意見があると思いますが、子供は親の所有物ではないというのが私のポリシーですのでどんな結果になろうとも後悔はしないと思います。
 たくさんの人に考えて頂きたいです。「誰のための面会交流ですか?」これからも、協力し合って子供を育てていきたいと思います。


お子さんと離れて暮らすパパ

 関西在住40代の子どもと離れて暮らしている父親です。
 子どもは二人、小6と小3の世の中の誰よりも聡明で可愛い女の子二人です。

 子どもたちとの面会交流は2008年12月頃からです。
 調停で両方の弁護士と調停員と裁判官からのアドバイスで、5ヶ月に2回、面会交流支援団体での交流になりましたが、私が病気で入院した際に延期した時以外はいっぱい遊ばせてもらいました。

 面会交流支援団体の契約が終了した後はお互いの話し合いとなったのですが、その際の話し合いで「子どもたちが一番喜ぶ方法で」と団体職員にアドバイスをもらい、しばらくはおばあちゃん(私の母親)を介して連絡を取って面会交流をしていましたが、「お母さんも一緒に遊びに行こう」と提案したことから現在では、基本的に家族4人(母親(元妻)も含む)でドライブなどのお出かけが2ヶ月に1回、私の両親の家に遊びにくるのが2ヶ月に1回 となっています。ただ、私の両親の家が私の家と近いため、子どもたちとは少なくとも月1回交流できていることになります。また、子どもたちの誕生日、母親の誕生日、母親のお母さんの誕生日のプレゼントなどのアニバーサリーや、旅行に行ったお土産などを持っていくことを言い訳にして、直接子 どもたちも住む家に渡しに行くと、家に喜んで招き入れられて、一緒に晩ご飯を食べる事もあります。
 また、最近は子どもたちが遊びにいきたい時にはお呼びがかかって、一緒にお出かけ、ということも多くなっています。

 家族4人で過ごす時間は、子どもたちに家族の大切さを伝えられるように心がけています。
 このような面会交流以外にも、長女が電車通学であるため、数年前から2週間に1回、朝の登校時にこっそりと逢っていましたが、一度母親に見つかってからも、長女がかなり逢えていたことを喜んでいたこともあり反対もされず、今では週1回の公認の逢い引きとなっています。

 長女にはこのように頻繁に逢っている上に、性格的に割り切った考えが出来ているようですが、二女には月に1回ぐらいしか逢えないせいか、毎回別れるときに「お父さんのところに帰る」「お父さんと一緒に帰る」などと言われ、それを払い除けなければならないのが非常に辛いですが、いつもサヨナラの時に二人とハイタッチをしてバイバイを4人ともが楽しく帰宅できるようにしています。

 離れて暮らす事については、二女もいずれは知ることでしょうが、「一緒に帰る」発言も、離れた頃が三歳だった事もあり、結構無邪気に言っています。一方、長女は、連れ出されるときに「お母さん止めて」と叫んでいましたが、その後は「仕方ないよ」と悟ったような発言をしています。
 長女との逢い引きのときに「いつでも逢えないのってどう思う?」と聞いてしまったことがありますが、「良くない」と言ってくれました。
 そして、「お父さんやお母さんのように子どもとバラバラにされているお父さんやお母さんが、この日本にはいっぱいいるけれど、そんな事がなくなる ようにお父さんも他のお父さんもお母さんも頑張って、親子が普通にいつでも会えるのが当たり前の社会に変えるように頑張っているから、応援して祈ってちょうだい」と伝えたところ、朝逢うたびに「祈っているよ」と言ってくれます。

 理解してくれる長女がいて、心を通じ合わす事が出来ている事が私の生きる力になっていますし、母親(元妻)の理解もあって、子どもたちの「お父さ んやおじいちゃんおばあちゃんの所に行って遊んだり、遊びに来てもらいたい」という気持ちがかなって、一緒に暮らせない傷を癒すことが出来ている と思います。


お子さんと離れて暮らすパパ

1. 経過及び面会条件
 2004年、元妻と長男(3歳)長女(5ヶ月)ともに元妻実家へ引越し別居開始。私から円満調停及び面接交渉調停を、元妻側から婚姻費用分担請求の調停を開始しました。  その後、相手方代理人(弁護士)と相手側父親へ、面接交渉の必要性を訴える手紙を出したところ約4ヶ月振りに子ども達と会え、月1回2時間の元妻側立会いの元という条件で面会スタート。面会条件の制限を広げたい思いから約2年間、12回という調停を経て、離婚成立。面会条件は変わりませんが、別途学校行事(運動会)の参加、クリスマスプレゼントの受け渡し、月1回程度の電話での会話が追加となりました。
 上記内容にて、約8年経過、現在まで続いています。

2. 面会内容
 月初めに私から元義父の携帯電話に20時頃連絡を取り、日時を決めています(土曜もしくは日曜日)。その際に子ども達と電話を代わってもらい会話をします。元義父からは、学校の成績や最近風邪を引いた事など子どもの近況を教えていただく事もあります。面会は、だいたいが先方宅の近くの大きな公園で行い、12月〜3月は外は寒いので先方自宅にて行ってきました。
 年1回の学校の運動会の際は、私が参加しやすいように、面会時等に元義父から早めに教えていただき、当日は昼食時のお弁当を私の分まで用意され、子ども達を交えて一緒に頂いています。
 ここ1,2年は、子ども達の習い事の関係でスケジュールが合わないときがあり、平日の夕食を回転寿司やファミリーレストランにて食事をするという事もありました。

3. 面会エピソード
 離れて暮らす事に関しては、私から直接子ども達に何故そうなったのか、これからどうなるのかという事は、当時から現在に至っても伝えていません。離れて暮らす理由は、別居当時に母親から聞いていると思います。面会時に私から話す事も考えましたが、相手方同席という事もあり、また当時は色々な葛藤もあり話せておりません。今後については、面会時や誕生日プレゼントの際の手紙などで「離れて暮らしているけどいつも心に思っているよ。」という事だけは伝えております。
 ただ、長男が5歳の時にたまたま相手方が席を外した時に私からそのように伝えると「パパが会いに来てくれるのをずっと待っててん」という言葉がありました。またその頃相手方の家での面会時にクリスマスプレゼントは何がいいか尋ねると「パパがずっとこの家に居てくれる事!」と泣かせるような事も言っていました。
 やはり一緒に暮らしていないと子ども達の普段の様子が分からず、こちらから子ども達に聞いても、まだ幼い場合こちらがよく理解出来ない場合があります。そんな時に元義父が、分かる範囲で補足して話してくださるので助かります。また、面会日時を決める電話で、「長男が、最近〇〇の科目で頑張り良い成績をとっているので、今度会った時に褒めてやってください」と話してもらった時は、とても嬉しく感謝しました。

4. 面会交流に必要だと思う事
 1) 相手方の悪口や非難はしない。
 2) できるだけ同居親のペースに合わせて面会日時や時間・場所を決める。
     離れ暮らす親の方は子どもの状況が分からないが、同居親は、子どもの体調や 前後のスケジュール等を考慮して、日時
     や場所を話している事が多い。
 3) 決めた面会日時は必ず守る。
      8年間で3回位、私の方が遅刻しましたが、気を付けたいと思います。また、先方も少し遅刻する事がありましたが、
     子どもを連れての移動はなかなか時間が掛かる事があるので理解が必要だと思います。
 4) 第三者機関の検討をする
     面会について、同居親と直接打合せが出来る場合は良いが、そうでない事の方が多いかもしれません。その場合、第三
     者が必要になると思います。私の場合も第三者機関を入れる事をずっと相手方に提案してきましたが、受け入れられま
     せんでした。しかし、元義父がその役を買ってくださり助かっております。
 5) 詮索しない
     面会していく中で、子どもの話す内容と、同居親の話す内容に食い違いがある事がたまに出てくるが、そこは詮索しな
     い。(同居親の都合を考慮する事も必要。)
 6) 養育費を払う
     同居親が、経済的に余裕がある方が面会しているケースが多いと聞きます。面会と養育費を交換材料と考えてはならな
      いが、そういう意味でもやはり養育費は 継続して支払う事が重要だと考えます。

5. その他
 1) 面会当初は、離れて暮らす親も心理的に不安になる事が多い。永い間合えなかった場合、会う事で子どもとの距離を肌
     で感じる場面があるからです。現在は、面会している親同士のコミュニティもSNS等いろいろあるようなので、利
     用するのも一つの選択肢だと思います。
 2) 民法改正により離婚届の提出内容の一部変更等ありましたが、もっと踏み込んだ法改正が必要と感じます(親たちや世
     間の意識改革には程遠いと感じます)。

6. 最後に
 面会交流を通じて、子ども達の成長を感じられ離れて暮らす親としてこれ以上の喜びはありません。また子ども達にとっても、離れて暮らしてはいるが父親はいつも自分たちを見守ってくれていると感じてくれているようなので、これまで続けて来て間違いではなかったと自負しております。中には会わない方が良いと、親の方がその機会を放棄する方もおられると聞きます。色んなケースがあり一概には言えないのかもしれませんが、許されるなら面会は制限があったりままならない状況であっても継続していく事が重要だと思っております。


お子さんと離れて暮らすパパ

 私が面会交流をはじめて、3年が過ぎました。
   子供は、3人おります。
 面会交流がはじまるまでは、調停が長引き、1年半の間、子供達にあえませんでした。この時は、本当に生きた心地がしませんでした。
 理由としては、同居親が再婚したこともあり、赤の他人の同居親の再婚相手に対して、まだ小さい子供なのに、遠慮心や寂しい思いをしているのではないかと心配になったり、もう二度と会えないのではないかとの不安でいっぱいでした。

 調停が終わり面会交流のルールは、
 ・第三者機関の利用
 ・3カ月に1度2時間まで
 ・プレゼントの禁止
 ・同居親の悪口や子育てについて

 第三者機関を利用して
 メリット
 ・同居親と連絡や顔を合わせなくてよいから、トラブルが避けられる
 デメリット
 ・場所が指定される
 ・日時が指定される
 ・費用がかかる

 本心はもう、第三者機関を外して、会わせて欲しいのですが、まだ難しい状態です。
 面会交流をはじめた当初は、まだ同居親に対しての憎しみは正直ありました。1年、2年と約束通り、会わせて頂き、私の心は感謝しかなくなってきました。子供達の成長と笑顔のおかげです。
 そんな子供達は、私のことを「お父さん」とは呼びません。もちろん再婚したのが理由です。「古いお父さん」「◯◯(私の下の名前)ちゃん」と呼んだりしましたが、上の子と真ん中の子は私が実の父と認識あるので、お互い歯痒さはありました。ただし、短い交流時間を楽しみたいので、そこは拘らず呼ばれた名前に笑顔で答えてきました。
 そんな気持ちが通じているのか、子供達も私と会うのを本当に楽しみにしてくれているようです。
 面会交流は、会い続けることが大切かと思います。子供が大きくなってしまえば、それは子供の意思。大きくなって、ちゃんと話せる時に、子供に別居親が信頼されるには会い続けるしかないと信じてます。それが、私の今できる精一杯の愛情です。


お父さんと20年ぶりに再会された方

『親を許す事、現実と向き合う事』

 僕は、今年の3月に20年ぶりに父と再会することが出来ました。再会する事が出来た理由は、両親を許し、離婚の真実を確かめようと思えたからです。
 一家が、バラバラになった原因は、父の働く会社の倒産でした。職を失い人生の挫折を味わっていた父は、家族に当たる事で憂さを晴らしていました。それに耐えかねた母と姉が家を出て行った事から始まりました。高校受験の真っ最中で、今転校するわけにいかないと思った僕は、荒れる父に怯えながら、中学を卒業後に家から出ていきました。
 卒業後は、母と共に母方の親戚が用意した家に住みました。母や姉は「あんな人の事は忘れなさい」「あんたの父親はもういないんだ」と言われました。僕らにとって父は完全な悪者でした。しかし、そう言われながら僕は父のいない生活に何とも言えないさみしさを感じていました。「ずっと仲良く暮らしてきたのに、どうしてこんな事になってしまったのか…、父さんは本当に悪い人なんだろうか?」と言う疑問は、父を嫌う母や姉には伝えられませんでした。
 やりきれない思いを抱えたまま過ごしていた僕は、自分の不幸を嘆き、家族を困らせようとわざと学校をサポって不良になったり、他の家族の幸せそうな姿を妬んだりもしました。うつ病にかかり、「自分の存在価値って無いのかな?」と感じる事もありました。
 それでも、親以上に親身になってくれた支援者に幸運にも出会い、支えられた僕は、どん底から少しずつ上向きました。父に対しても、本当に僕らを恨んであそこまで荒れていたのか冷静に考えました。僕は親の離婚の真相を知って家族の問題としっかり向き合おう、現実から逃げない事がきっと自分には必要だと思いました。
 父と会うきっかけは、本人からの手紙でした。「慢性骨髄性白血病」と言う難病にかかっていた父が、母の弁護士を通じて僕ら家族に呼び掛けてくれていました。母は反応せず、姉は動揺した後拒否、僕は手紙の住所を確認して返事を書きました。それから半年経った頃に届いた父からの手紙に記されていた電話番号に僕は勇気を振り絞って電話を掛けました。怖かった父の事を覚えている僕の体はとても震えていました。20年ぶりに聞いた父の声は、昔と全く変わってはいませんでした。むしろ僕に対して「大人になったね」と優しく言った父は、家族の仲が良かったあの頃の父のままでした。電話しながらすぐ会いたいと思った僕は、その数日もしない日曜日に、父と再会しました。
 1度目の再会は、20年ぶりで、怖かった父を覚えている僕は警戒して言葉を選んでいました。父もまた僕に対して遠慮をしているようでした。でも、2度目の再会の時は、昔の父の愛車のプラモデルをプレゼントすると、とても喜んでくれて、色んな事を話してくれるようになりました。
 僕は今、人生で一番幸せな時を過ごしています。今できる最高の親孝行がやれていると思っているからです。僕は家族がまた一つになる事を望みません。なぜならそれはすぐには実現できない事だと思うからです。だから、父に会っている事は母には秘密にしています。逆に母や姉に会いたいと思っている父の願いも受け入れていません。分かった事は、父は悪者ではなく一人の人間だったという事です。僕は荒れていた父に対して、父はあの時はああするしかなかったと、父を許すことで、真実を知る事が出来たと思っています。これからは父に会えなかった20年間を少しでも埋められるよう、少しでも多くの思い出を作っていきたいです。